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8月. 22.

「傷から湧き出る泉」

吉川直美 シオンの群れ教会 牧師
聖契神学校講師
神学校で「霊性の神学」というクラスを教えるようになってから8年目を迎えています。1年間の講義のうちの大半は、それぞれの生育歴からもたらされた心の傷や、それによる人間観・神観の歪みを取り扱います。これから教会に仕える人々にとっては、欠かすことのできない作業になります。手当を受けずに放置され隠された傷は、知らない間に膿んで、自分自身や他者を蝕む不安と恐れの源となってしまうからです。それは「おまえなど価値がない」、「価値があるところを見せろ」という呪いの言葉の温床ともなり、「あなたはわたしの愛する子」との父の呼びかけ─あるいは「平安あれ」という主イエスの祝福の言葉に耳を閉ざさせ、神と隣人を自分自身のように愛しなさいという祝福の命令を実現不能なものにしてしまいます。
しかし主イエスは、人格の深部にまで及ぶ一般的には回復困難な傷にも手を伸ばされ、汚れを洗い流し、無防備な真実の「私」を主の赦しの衣で覆ってくださるのです。それは必ずしも心理的な癒しや問題解決を意味しません。いえ、それよりはるかに本質的な回復をもたらしてくださいます。主イエスに手当てされ覆われた傷は、キリストの香りを放ち、他の人々を主の十字架の傷─その存在の中心へと招きます。自分や他者を痛ませていた傷こそが、主イエスのいのちの湧き出る泉となり、自分と他者の傷を癒す源になり得るのです。
そのためには、身に付けていた様々な武器を手放して、無防備で不安な子どもの自分に出会わなければなりません。このとき必要な存在が霊的同伴者、クラスの仲間です。無防備な互いを受け入れあう─すなわち互いの足を洗いあう体験を通して、それぞれの共同体(教会)にもこの祝福を分かち合う者として遣わされていきます。
私は5月に娘を天に送りました。耐え難い喪失の痛みと悲しみの中にあって、これまで同伴してきた傷によって私自身が覆われていることを知りました。今、私が希望を見出しているのはこの痛みもまた、主イエスに覆われて、誰かを潤す泉となるであろうということです。

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7月. 23.

「平地の説教」ルカによる福音書6章20~26節

大井満 日本キリスト合同教会板橋教会牧師

マタイによる福音書5章から7章は「山上の説教」として知られていますが、それに対してルカによる福音書6章17節(実際には20節)から49節は「平地の説教」と言われています。 
なぜルカはことさらに「平らな所」であることを強調したのでしょうか。それは、主イエスが神の子の身分を捨てて、わたしたち罪人の世界にまで下ってきてくださったことを強調しようとしているからではないでしょうか。上からの目線でではなく、同じ低さに立ってくださるためです。
「平地の説教」は、4つの幸いと災いを対比させる説教から始まるのですが、その説教を語るに際しても、「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」(20節)と記されています。当時ユダヤでは、教える教師が座り、聞く(学ぶ)生徒たちがその周りに立ったと言われています(マタイ5章でも同じ)。わたしたちと同じ立場に立ってくださった方が、今度はさらに低くなり、下から弟子たちを見上げて語りかけてくださるのです。
ここではまず、貧しい人たちの幸いが語られます。それは「神の国はあなたがたのものである」からです。神の国とは、神のご支配を表しています。つまり、わたしたちが貧しいとき、わたしたちはすでに神のご支配を受けているのです。神の子が、罪人の世界にまで貧しい姿で来てくださったときから、神のご支配は始まっています。貧しく、助けを必要とするとき、主はわたしたちと共にいてくださり、わたしたちを支配してくださっているゆえに、「今飢えている人々」も「今泣いている人々」も(21節)、「憎まれ・・・汚名を着せられるとき」も(22節)、やがて満たされ、笑うようになり、喜び踊ることができるようになるとの約束を生きることができるのです。 
反対に、今、満ち足りてしまっているとするならば、それ以上の満足がないばかりか、かえって不幸になるのです。それは、満腹でもうデザートが入らないような状態です。 
神の子が低く貧しくなってまでわたしたちのために来てくださったことを感謝し、わたしたちも謙遜に、神の国の福音を宣べ伝えたいと願います。

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